ズボラ夫の男性育休 123×222日

1.23生まれの娘と始める男性育休222日の軌跡。京大出たのに専門卒の嫁の尻の下。俺のスゴさはブログで出すぜ!男性育児、男性育休、家族の資産形成、育休中の勉強法、プログラミングについて書きます。

結婚・出産祝いの異常なシステム

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ここ数年で自分にも結婚と出産があったわけだが、どうにもそのお祝いを渡す慣習が好きになれない。

ちなみに最近読んだ某ブログによると世の中には『言いやすい正論』と『言いづらい正論』というものがあるらしい。

たとえば最近話題のGoToトラベルキャンペーンで東京除外になったあとの宿泊関係者の声で

「感染を広げないという意味では仕方がないことだと思う。落ち着いたら来てもらえたら」と答えるのが『言いやすい正論』。

「はぁ?かかるかわからんもんのために除外?こちとら生活かかっとんじゃボケ!」と答えるのが『言いづらい正論』。

本音で言えばどう考えても後者なわけだが前者の回答をするのが"大人の常識"。
後者を言おうもんなら正義マンに窓ガラスを割られます。

ちなみにこの記事は後者です。

結婚ご祝儀3万円に気持ちはこもっているか

さて、結婚ご祝儀は3万円を包むのが"大人の常識"。

しかしあまりに思考停止で3万円包んでいることが多く、結婚する人に対しての気持ちはどれだけこめられているかははなはだ疑問だ。

本来ご祝儀というからにはお祝いの気持ちが先にあって、その気持ちを表現するには何がいいかというのが後に来るべきだ。

しかし実際は3万円包むことありき。

仮にその人への気持ちを換金したら5万円だとしても同僚との整合性から3万円にしておくのが"大人の常識"というものだ。

自分が結婚式をして驚いたのだが、いくつかの式場へ見積もりにいったところ、見積書の中にはゼクシィの平均祝儀単金に人数をかけたものが見積もり総額から引かれ、新郎新婦の実質の負担金という形で表示されるところがほとんどだった。

つまり、ご祝儀は"もらえたらうれしいお金"なんかではなく、"もらわないと困るお金"として組み込まれているのである。

そう、結婚ご祝儀は当人へのお祝いなんかではなく、結婚式場からの請求なのである

僕はこの当たり前が正常であると思うことのほうが異常だと思う。

以前出席した結婚式で1万円しか包まなかったことを同僚からイジられている人を見たことがあるが、むしろ自分の財布事情やその人への気持ちと向き合ったという点では思考停止で3万円入れた自分よりもまっとうなんではないかという気持ちにすらなったものである。

出産祝い文化はなおさらカオス

結婚式の次には”出産祝いを贈り合う”という文化がある。
これは結婚ご祝儀における3万円みたいな暗黙知がないぶんなおさらカオスになる。

いや、暗黙知はあるにはあるのだが、結婚ご祝儀ほどのテンプレがないぶん人によって解釈がまちまちになるという点ではなおさらタチが悪い

こんな僕も出産祝いをたくさんいただいたが、いただけるもののジャンルが偏ってしまって、同じものがたくさんあるという状況になってしまった。

個人的にとても助かったのが現金や商品券なのだが、これも相手に子どもが生まれた場合には同額を渡すことになるので双方トントンという状況になってしまう。

"半返し"とかいう謎ルール

出産祝い文化をなおさらカオスにしているものに"半返し"という"大人の常識"がある。

もらったものには半分くらいの価値のものをお返しするという謎ルールだ。

出産祝いには3万円みたいな相場観がないので、半返しの価値も金額にするとまばらになる。

"大人の常識"を調べるためにネットを見ていたら

「相手へのお返しに失礼のないようにもらい物の値段を調べる」

ことを推奨している人もいたが、そっちのほうがよっぽど失礼だと思うが。
自覚なく「言いづらい正論」を言っている人ほど怖いものはないいい例だ。

しかし、出産直後はこちらもバタバタしていて結局画一的な商品を急いで選ぶようなことになってしまう。

とにかく、このように『お祝いを渡す、お返しをする』というのが当たり前の世界になるとお祝いの気持ちよりも手続きや”何を渡すと失礼にならないか”ばかりに意識が向くようになる。

良くて相殺、子なしだと出ていくだけの世界

子どもがお互いにいれば相殺、子どもがいないと出ていくだけの世界になるのが出産祝いの世界だ。

そんな中、場合によっては同じような品がダブついてしまっている状況も発生してしまっている。
しかしなにもしなければ非常識と言われかねない。

一体誰が得しているのか。(百貨店かな?)

正直「おめでとう」のLINEだけで十分

僕個人としては「子どもが生まれた」と言えば「おめでとう」のLINEが返ってくるだけで十分だと思っている。

京大の友人たちは合理主義者が多いのだが、そういう人たちは「おめ」のひと言だけで済ます人が多い。

僕の妻は”常識人”なので、だいぶ早くに子どもが生まれた僕の友達にもお祝いを渡すべきというので昔に渡したが、僕の子どもが生まれたときに「おめ」のひと言だけで返してきた友人もいる。

一般的には非常識なのかもしれないが、これからの連鎖を断ち切るきっかけになって内心助かった。

少なくとも「おめ」のひと言でお返しは済んだと言えよう。

モノカネがないとお祝いする気持ちを送れないのか

まず僕はお祝いする気持ちにモノカネは要らないと思っている。

もちろん心からの贈り物というのはあってしかるべきだと思っている。
お世話になった上司への個人的なプレゼントや節目節目での両親への贈り物など、そういうものはやはりしてももらっても嬉しい気持ちになる。

しかしそれはあくまで感謝の上に乗っかっているものであって、"モノカネを贈り合わないと非常識"という次元の話だと強烈な違和感を持たざるを得ない。

やるとしたらリアルな暗黙知があるべき

しかし実際は僕も世間では社会人としての肩書きがあり、冒頭書いたような『言いやすい正論』の振る舞いをしておくほうが無難な局面は圧倒的に多く存在する。

職場の同僚が出産して、

「いや〜僕はLINEでおめでとうを言えば十分だと思ってるんでそれで!」

とか言うことがとても賢い行動だとは言えないだろう。

しかし出産祝いをやるとしても、結婚ご祝儀3万円→引き出物を渡すというテンプレがあるように、もっと実態に即したリアルなものにしたほうがいいと思う。

具体的にはこうだ。

  • 相場は5000円
  • お返しは不要
  • いくつか候補を挙げて選んでもらう。そうでなければ商品券。

これをやればかなりスッキリするのではないかと思う。

以上『言いづらい正論』として書いてみたがどうか。
自分の意見は果たして少数派なのか。